ずぼらへっぽこ事務

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福島県震災ゴーストタウン

やっぱり寝られません、ざくおです

 

きっとゴールデンカムイよりも生理前のPMSのようです。動悸もそのせいかと。

 

眠れないので昔の話をします。このブログで書いたことあるかもしれません。

 

2011年3月11日。

 

東日本大地震

 

地震発生当時、大学生だった私は所属していた学生団体の飲み会のため京都行きの電車に1人乗っていた。

 

突然電車が止まり、しばらくの間停車した。地震だとアナウンスが入ったが、大したこと無いだろうと思っていた。

 

待ち合わせの駅に着いたら、男の先輩から「さっきの地震どうも大きいらしい」と聞かされた。しかしその時点でも大したことないだろう、いつものことだと流していた。

 

飲み会はいつも通りで、終わればさっさと帰路に着いた。

 

家に着くと母親がテレビを見ていた。

 

「今日の地震、すごいことになったんよ」

 

目に入ってきたのは津波に流されていた町の映像だった。

 

それから2年。

 

大学を卒業し、私はフリーターになった。そしてオーストラリアに1年間契約社員として雇われることになっていた。

 

2013年1月。 

 

月末に日本を発つ予定だった。

 

正月の後、1人夜行バスに乗って福島へ向かった。事前にボランティア団体へ申し込んでいた。

 

オーストラリアでの話のタネになるだろうと、そして津波に流された現場を見てみたい好奇心からだった。

 

私は決して善人ではない。

 

その土地の人々のためなんて微塵も考えなかった。ただ純粋に行ってみたい。それだけだった。きっとこんな気持ちの持ち主なんて現地で活動されてる方にとっては願い下げだと思う。

 

でも私はこう思っていた。

 

偽善でも行動して誰かのためになるなら、それでも良いではないか、と。

 

福島駅からバスに乗り、タクシーに乗り継いだ。海沿いの町は雪が深く積もっていた。街から海の方向を見ると雪以外何も見えなかった。全て流された跡だとタクシーの運転手さんから教えてもらった。

 

道路沿いの建物は所々崩壊していたが、丘の上には津波の被害を受けなかった住宅街もあった。

 

人の気配はどこにも無かった。町に入れるのは警察とボランティア団体のみ。町と町の境目ではパトカーが何台が停まっていて、誰も入らないように見張っているとボランティア団体の人に教えてもらった。

 

聞こえるのは冷たい風が横切る時の音だけ。シンと静かに静まり返った殺風景なゴーストタウン。

 

ボランティア団体の若い女性は私だけだった。

 

原発から近い町だったからだと思う。

 

ほとんどが50代くらいの方々で、唯一同い年くらいの男の子が入っていた。血は日本人だがオーストラリアで生まれたと話していた。日本縦断旅行に来ていて、突然今回の地震が発生し、こんな時だからこそとボランティア団体に所属したとのことだった。  

 

本当に偶然だが、私がオーストラリアに渡った後、この男の子のお母さんに会うことになる。が、それはまた別の話…。

 

同じボランティアの拠点基地には東京電力の職員もいた。

 

ボランティアの人と東京電力の職員の間には明らかに壁があった。基本的にお互い干渉しない。相入れないのはわかるが、ものすごく異様な空気だった。東京電力の人たちは放射線汚染が酷い泥などの処理をしていると聞いた。ボランティア団体が処理する物よりひどいのだと。東京電力の中には中年に見える女性もいた。

 

私が滞在したのは三日間。その間雪は降り続いた。その雪のおかげで地面からの放射線量は多く無かった。

 

あの時出会った人たちの顔や話したことを今でもよく覚えてる。

 

皆さんは善人だった、と思う。

 

京都行きのバスを待っていた福島駅で、現地の女性に声をかけられた。ボランティアで来ていると伝えると「ありがとう、ありがとう」と何度も感謝された。

 

それ以来福島県には行っていない。もう9年も経っていた。

 

きっともう、この先訪れることはないだろう。